東大生のツラツラ

東大の授業の様子や自分が普段考えたことをツラツラと綴っていきます。読者登録やコメント等とても喜びます笑

関東は飲み会、関西は1対1のお笑いに向いてるのでは?

 

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僕は大阪出身で、今実家は奈良にある。
大学のために東京に来たわけだが、僕は自己紹介の時に「奈良県出身です、鹿に乗って東京に来ました。」と言う。
うん、めちゃくちゃ滑る。

まあ前置きはどうでもよくて、僕は今回関西と関東の笑いの違いについて肌で感じる場面が多かったのでそれについてちょっとまとめていきたい。
関西の人はよく面白いって言われるが、それの理由などもなんとなくわかってきた。

 

関西と関東の大きな違いとして方言がある。
いわゆる関西弁ってやつだ。
関西の人はその方言ゆえに性格がきつい印象を持たれることも多いのではないだろうか?

僕はまだぜんぜん関西弁が抜けていない。
しかし、こっちにきてから1.2年くらいは初対面の人に対してはなるべく関西弁が出ないようにしていた。
ビビられるから、そして面白い人って印象が持たれてあとで落差があったら困るから、という2つのしょうもない理由だった。

具体的な関西弁を見てみよう。


「なんでやねん。」(どうして)
「ちゃうやろ。」(違うでしょ)
「どないなってんねん。」(どういうこと)
「ほんまに」(本当に)

こう見ると、関西弁の方が断定調であり語気が強いことが伺える。
語気が強いから関西弁の人は怖い印象を持たれることがあるが、逆に笑いだとそれが活きてくる。

人は中途半端なものを嫌う。
振り切ってもらったり、一貫性を持ったものを好む。
それはひとの心理効果として有名なものであり、それが笑いに影響してくることが考えられる。
例えば、漫才でいうツッコミ。
関西弁でつっこむ人もいれば、標準語の人もいる。
関西弁でつっこむことは、断定口調でありより”ツッコミ”としての要素が強くなるのだ。
標準語だと、なんとなく”ツッコミ”として弱くなってしまい、聞いてる側に対する圧が少なくなる。

こうやって考えると、やはり上方文化という大阪や京都で育った文化の影響がいまだに根強いのだろうと思う。
それらの文化は能や狂言などお客さんを楽しませるために言葉を紡ぐものだったから。

さて、ここまでやたら関西弁が漫才、すなわち1対1の会話に適していることを述べてきた。
しかし決して関東の笑いのスタイルを否定したいわけではない。
もちろん関東に来て、関東なりの笑いのあり方があると思ったのでそれについて紹介する。

 

僕が感じたのは、彼らはノリというものを大切にする、ということだ。
みんなが笑う雰囲気になっている時に、大げさな表現や動作をしてより笑いをかっさらっていく、みたいな。
大学生になるとお酒の場が増えるが、特にそんな場では無類の強さを発揮する。
どのタイミングで自分が発言するか、なんて言うか、どんな動作をつけるかなどなど、飲み会ではそこらへんをフィーリングで面白くできるやつがいるんだから敵わない。
僕は飲み会だと自分の発言するタイミングが掴めないことがほとんどだ。
少人数だと面白いことはたくさん言えるが、大人数の場でノリに乗れる人ではない。(もはやこれは僕が根暗であって、関西弁と標準語の違いではない気もしてくるが。。。)
しかも、ノリに乗るということは他人との協調性が大事になる。
そんな時に関西弁の強い口調が必ずしもプラスに働くとは限らない。

・関西弁の話し方は2人で初めて威力を発揮したり、少人数で話をしっかり聞いてもらえる場で発揮する。
・標準語はノリの場ではみんなにウケるという強さを発揮する


昔から関西にいる人は話で笑いと取る傾向が多かったからそのような場に慣れていないのに対し、関東にいる人はノリで笑いを取ることが多かったからこのような違いが出てきたのではないだろうか?
そう考えると、関西と関東での笑いのそれぞれは求められている力が違うことがわかる。

だからなのだ、関西弁話す人を好きという人が多いのは。
だってあなたと2人で話す分には、関西弁の威力を十分に使いこなせるのだから。

 

もちろん関西弁を話しながら関東での飲み会のノリにめちゃくちゃ合わせられる人もいるだろう。
また、標準語で2人で話す人が関西弁で話す人に比べてつまらないと言いたいわけでもない、あくまで僕が思った傾向である。

僕は今回、関西出身の人として関東に越してきてどう感じたか、両者の笑いの違いはなんなのかについて考察した。
しかし、関東出身の人が関西にきてどう思ったのか、飲み会のノリはどうなってるのか、漫才っぽい話し方に適応するのか、などなど色々気になるところはある。

もしこれを読んでくださった方でそのような人がいらっしゃったらぜひ簡単にでいいので笑いの違い等を感じたのであれば教えて欲しい。

 

まとめます。

飲み会むずかしいよお。

読書感想文は不要なのか?

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ツイート主がアカウントを削除してしまったので、元のツイートを見ることができないが、読書感想文は不必要というであるというつぶやきが話題になっていた。(一応ライブドアニュースのものがあったのでそれを貼っておく)

読書感想文が日本の読書嫌いと作文嫌いを助長している、これがつい主の主張だ。
めちゃくちゃ拡散され読書感想文の是非について議論されているが、いまだに必要なのかどうかという結論は出ていないようだった。

このnoteでは読書感想文の良い点と悪い点を整理してから、読書感想文の立ち位置を確認するところから始めたい。

僕の結論から言っちゃうと、読書感想文はあっていいものだと思う。

読書感想文のメリット

 

・読書をする機会を提供してくれる。
・作文力をつけることができる。

主にこの2つだと考えている。

普段から本を読まない学生が、夏休みという時間たっぷりの期間を使って本を読む機会を得られるというわけだ。
そしてその感想を作文としてまとめることで、段落の変え方や自分の意見の書き方などをまとめる底力を養うきっかけにもなる。

読書感想文のデメリット

 

・読書とは本来娯楽であるべきなのに、強制させることで読書嫌いを促す。
・自分の気持ちを文章で表現することは本来楽しいことなのに、作文形式で強制させることではそれらを教えることができない。

これはほとんどツイート主が主張していたことだ。

確かに課題という形式で強制させられることで、読書に対してネガティヴなイメージを持つ学生も多くなるだろう。
しかも、読んでどんな感想を抱くかわからないのに、字数を決められてその字数に到達するまで思ってもない感想をひねり出す作業は苦痛でしかないだろう。

読書感想文の立ち位置

 

メリットとデメリットを見てもらえばわかる通り、トレードオフな関係になっていることがわかる。

確かに読書をするきっかけにはなるかもしれないけど、それが読書を嫌いになるきっかけになるかもしれない。
作文力はつくかもしれないけど、自分で文章を書くことの楽しさを感じられないかもしれない。
何らかのメリットを取ろうとした時に何か不都合が起きるようなことをトレードオフな関係というが、まさにそれになっている。

そうなると、人それぞれどれを重視するかによって意見が分かれてくるのだが、まず読書感想文の立ち位置を確認したい。

読書感想文というのは大抵は小学生に課されるものだろう。

中学生、高校生と上がっていくにつれて国語で求められる力は変わってくる。
具体的にいうと高校なら国語は現代文という科目に変わる。
そして英語という外国の言語も勉強することになる。
しかし、日本の教育スタイルとして、それらの科目を通じて言語力そのものを鍛えることは期待していない。
わかりやすく言い換えると、言語を使いこなすことだけに集中するなら英語なんてペラペラ話せるようになってるだろう。

しかし、6年間勉強しても特に英語は話せるようにならない。
それは論理的思考力を鍛えることを目標としているからである。
現代文の要約力、英語の文法を暗記して難しい文章を一つ一つのルールに当てはめて紐解いていく能力などなど。
では、論理的思考力を身につけた状態をAとしよう。
日本の教育では最終目標としてAを目指しているのだ。

そして、読書感想文がいらないという人たちの理想として、娯楽として本を読むことや自由に楽しく文章を書く状態がある。
その状態をBとする。

すると、読書感想文はAとBのちょうど中間地点であると言える。
小学生にとっての読書感想文は、BからAに移動するための架け橋みたいな役割を持っているのだ。
読書の感想自体はどんなことを書こうとも自由である、その意味でBの側面を含む。
しかし、Aの力を養うためにも作文という形式は必要だし、読書を強制することで読解力をつけさせる狙いもあるだろう。

AとBの中間地点であることを考えると、中途半端な面が多くなってしまう。
読書感想文が議論の対象となりやすいのはそれが原因であろう。
さて、読書感想文の立ち位置を一通りまとめたところで、じゃあ僕はどう思ってるのかということについて触れていきたい。

読書感想文は必要なのか?

 

結論から言うと、読書感想文は必要だと思う。

読書感想文で読書が嫌いになる学生がいる。
自由に文章を書くことの楽しさを伝えるべき

以上の2点から僕の意見を書く。

 

まず、読書を強制されたことによって読書が嫌いになる学生がいると言う話について。

では彼らが読書を強制されなかったら読書を好きになっていたのだろうか?
そこに関しては疑問を感じる。
もちろん、読書を強制されたことによって本を読む機会をゲットし、それで本を好きになった子が多いのかどうかもわからない。
しかし、僕の意見だが強制されたくらいで一生読まなくなるなら、その子はもともと読書に熱中しなかった可能性が高いと思う。

僕は読書感想文を書くとなった時に、父親に勧められて初めて『ガンバの冒険』という本を読んだ。
ネズミたちの冒険の話だが、夏休みをかけて何日にも分けて読み進めた覚えがある。
その時初めて読書が自分の知らない世界につれて行ってくれることを知ったのだ。

僕がこのような体験をした以上、読書感想文がきっかけで読書が好きになった子も一定数いるのではないかと感じる。

 

また、自由に書くことの楽しさを読書感想文だと知ることができない、というデメリットについて。

読書感想文では楽しさを知ることができないので、自由に文章を書いてきてくださいという課題を課すのだろうか?
それは”自由”に文章を書くことを”強制”させるという矛盾を孕んでいる。

また、作文というのは自分の言葉がどんなまとまりを持って、どの段落ごとにきれるのかを考えながら書くものである。
それはつまり、自分の考えを整理しながら相手にわかりやすく伝える訓練にほかならない。
これは社会に出てから、難しい問題について自分の意見を他者に伝える時に必要となる力だろう。

もちろんこのnoteみたいに自分の考えや思ったことをエッセイ風に書くことも力がつくだろう。
しかし、それは自由な分いつでも誰でもできるという側面がある。
それをあえて課題に課すことは疑問が残るだろう。

結論

読書感想文が必要であるという僕の意見について述べてきた。
しかし、それでは排除してしまっている点があるのも事実である。

なので、究極的な結論としては、学校の先生がこの読書感想文の立ち位置を理解すべきであると思う。
例えば、自由に文章を書くことの楽しさを教えることも先生ならできるだろう。
また、読書感想文がどうしても嫌いな人がいるならば、Aの力をつけるために作文だけを課すとか、そこらへんの対処法はたくさんあるはずだ。

僕が一番問題だと思うのは、学校の先生たちが理由もわからず宿題を出し続けることである。
なぜこの宿題を出すのか、それについて常に疑問を持ちながら取り組めば教育の質も良くなるだろうし、既得権益にすがることもないだろう。
読書感想文が昔からあるから今もある、これでは少しばかり寂しい。

とりあえず、読書感想文がこんなに話題となるのはここまで書いてきたたくさんの経緯が絡んでるからだ。
一度紐解いてみると、なかなか面白いものが見えてきた。

まとめます。

読書感想文は良い。

東京一極化集中は生き物で例えることができる

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日本の東京一極集中は生き物の話で例えることができる

 

生き物といっても今回はイモとメダカで例えようと思う。

題名に日本の東京一極集中と書いた。

今は地方から若者が消えたり、限界集落、シャッター通りなど田舎の人不足が深刻な問題となっている。

大学生の70%は東京で勉強しているとのデータもある。

今回は、生物を大学で勉強している僕がその仕組みについて考えるところを述べつつ、どうやって地方を盛り上げていくべきなのかを書いていこうと思う。

東京一極化はなぜ起きるのか

僕はこれからも東京一極集中は避けられないと予想している。

もちろんこの予想は僕だけでなく、むしろ世間一般の意見であることは間違いない。

そこで、僕なりに面白く考える方法を考えたときに、大学で勉強している生物を例に考えることを思いついた。

ここではサツマイモとメダカを紹介する。

 

サツマイモについて

芋掘りをしてことがある人は想像つくと思う。

サツマイモは一つの株に何個も実がなる。

実というのが僕たちが食べるあの紫のやつだが、これがまた美味しい...

この実のなり方が土の栄養状況によって変わってくる、という事実を知っているだろうか?

土の栄養が十分にあれば、一株についてるサツマイモの全部が程よい大きさに育つ。

しかし、栄養状況がよくない場合はどうなるか。

一つ実が巨大化し、それ以外の実が全て小さくなるのだ。

他の実がお前に託した!!と栄養を全部分けるのか、元から強かった実が栄養をかっさらっていくのかはわからない。

 

メダカについて

なんとなくイモで察しがついた方も多いと思う。

メダカについても念の為。

さて、メダカを10匹同じ水槽に入れてみよう。

その状況で少ない餌を与えてみる。

するとどうだろう、1匹のメダカが生き残り、9匹は死んでしまうのだ。

 

さて、このようにイモとメダカの例をとったわけだが、これがどう東京一極化集中に繋がっていくのか。

日本はこれから高齢化社会になるにつれて、日本の人口が減っていくことが確定している。

予想じゃない、確定だ。

もちろん外国からの移民を増やしたりすることがあれば別だが、今のままだと人口が減る。

もっと詳しくいうと、人口に対する労働者の割合も減る一方だ。

これはどういうことか。

サツマイモでいうところの、土の栄養が少なくなるわけである。

そうなると"どこか"に集中するしかない。

もちろんその"どこか"とは東京である。

それが自然の摂理なのだ。

となると東京にはこれから人、モノ、お金の全てが集まることになり、地方にはそれがどんどん不足していくことが予想される。

では地方はどうするべきなのか?

地方は今、国に地方交付税などの補助金をもらうことに躍起になっている。

「僕らこそが受け取るべきだ、こっちの方がしんどいぞ。」

しかし、国自体もこれからどんどん少なくなる。

その理由は前述の通り、土の栄養が減り、メダカの餌が少なくなるからだ。

てことは、今のうちは地方のしんどいアピールで国からお金をもらえるかもしれないが、これからそのアピールの意味がなくなってくる。

そうなるともう残された手段は一つしかない。

そう、地方が自分でお金を作り出すしかないのだ。

その手段がわかんねえんだよ!!ってキレられそう(笑)

まあでもここは僕のnoteなので何を書いても怒られない。

とりあえず、僕が大切だと思うことを一つあげようと思う。

地方の強みを一つ挙げろと言われたら、僕は自然と答える。

では自然をどう活かすのか。

世界に対する日本ブランドはもう確立されているので、もう一歩踏み込んで”地方ブランド”を作り出す何かを探すべきだ。

佐渡島を例にとろう。

新潟県の北に位置する大きな島だが、実はのどぐろはここで生まれたと言われている。

ここののどぐろ、海外からわざわざ来て食す人がいるくらいの人気らしい。

シンガポールから来た富豪が、こののどぐろいくら?と店主に聞いた。店主は冗談のつもりで10万円です。という。するとその富豪はあっさり10万を置いていった。

こんな話があるくらいだ。

僕が言いたいのは、まさしくこういうことだ。

日本の地方でしか獲れないような食品や、できない自然体験、または人気アニメの聖地などなど色々な日本ブランドを地方ブランドに昇華する方法はいくらでもある。

まずはここから始めるべきではないのか?

僕が言えた話でもないかもしれない。

しかし、日本の地方ブランドが世界にどれくらいの人気があるのか、そしてどれを推していけば海外で人気が出るのかを調査している地方団体が多いのかどうかという疑問がある。

国の補助金をどうやってもらうかを考えていても、世界規模のマーケティング能力は養われない。

なのでその点において、ふるさと納税はいい制度であったと言える。

なぜなら、地方が自分たちを選んでもらうために地方の強みを見直すきっかけとなったからだ。

そして地方の強みというのは相対的なものであるので、マーケティング能力も鍛えられる。

てことで、今後は地方の公務員が安定的に同じ仕事をしていくのではなく、戦略的なアピールが必須となってくるだろう。

最初は東京一極集中はなぜ起きるのかを生き物の話で例えようとしただけなのに、最後は地方はどう生き残るべきなのかについての考察になってしまった。

まとめます。

地方は海外から人を呼び寄せる何かを作れ。

 

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最近note始めました。

同じ記事をコピペして載せるのもありかなと思ってたのですが、とりあえずはてなブログの方でもnoteやってる方がいれば是非繋がりませんか??

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顔出ししてますが、もはや気にしてません😇笑

ゼクシィのキャッチコピーが天才な理由

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「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです。」

ゼクシィという結婚をメインに扱っている雑誌が出したキャッチコピーだ。

 

まじで最初見たときは天才かと思って椅子から転げ落ちそうになってる自分がいたような気もする。

 

いなかった気もする。

 

さて、このキャッチコピーを見た瞬間、あなたは何を思っただろうか?

 

大半の人が、おおお、と思ったのではないだろうか?

 

では、その感心した理由は一体なんであろうか?

 

...

 

こう言うキャッチコピーの何がすごいとか、言語化するのは案外難しいののである。

 

しかし、僕はなんで自分がこれを見てすごいって思ったのか少し考えてみた。

 

すると、なんとなくだがこのキャッチコピーのすごさがわかった気がしたので、とりあ

えずそれを書いていく。

 

前半部分に注目。

 

まず、最初の「結婚しなくても幸せになれるこの時代に」について考えてみよう。

 

え?でも待って。

 

ゼクシィって結婚をメインに扱った雑誌ちゃうかった?

 

そんな雑誌のキャッチコピーの最初が、「結婚しなくても幸せになれる」だと...?

 

自分たちの会社がメインに扱っている結婚というイベントは、選択しなくても幸せになれるんですよって。

 

この選択肢が与えられていることで、私たちが覚えていたかもしれない不快感が取り除かれていることにお気づきだろうか?

 

まず、ゼクシィというのは既婚者が手に取ることを想定していないだろう。

 

では誰が購入するのか。

 

そう私たち未婚者である。

 

その未婚者の今ある立場を、ゼクシィは最初に肯定してくれたのだ。

 

考えてみて欲しい。

 

「結婚まだしてないの!?」とか「一人って辛いよね。」みたいな始まりだったらどうだろうか?

 

もちろん結婚したい!ゼクシィ買いたい!って思ってる人なら「そうなの、まだ結婚できてないの、早くしないとやばいよね!!」と購買意欲を掻き立てられるかもしれない。

 

しかし、結婚願望が強くない僕からしたら、そんなこと言われたら「結婚以外にも幸せはあるぞ、おん?」って反感したくなるだろう。

 

しかし、ゼクシィは僕たちを一旦肯定してくれているのだ。

 

つい僕も「おうおう、今の生活も十分幸せやぞ(ニヤニヤ)」みたいな感じになってしまう。

 

でもこんなん読まされたら、じゃあ今幸せやし結婚せんでもええか!ってなってゼクシィを買う人が減るかもしれない。

 

しかし、キャッチコピーというのは一文と短いから効果を持つのであって、前半だけ読んで後半読まないなんてことは稀だ。

 

要するに、ゼクシィ側からして最初に結婚しなくても幸せになれるんやでって言っても、続きを読んでもらえる自信があったのだ。

 

そして、続きを読んでもらうことで、前半部分を覆すほどのインパクトを与える自信があったのだ。

 

後半部分に注目。

 

さて、後半部分は「私は、あなたと結婚したいのです。」

 

もうこれヤバすぎるやろ。

 

要するにあなたと結婚した方が、結婚しなくても幸せやけど、もっと幸せになれるということを暗に伝えてるのだ。

 

でも、暗に伝えるって言っても表現はめちゃくちゃストレート。

 

「私は、あなたと結婚したいのです。」

 

まさかのプロポーズでそれを表現してきたか、と、、、

 

こりゃやられたでしょ、流石に。

 

しかもこのキャッチコピー、誰も傷つけてないのだ。

 

結婚してない人を結婚してる方に誘導する雑誌である以上、もちろんその誘導に反感を覚える人だって一定数いるはずだ。

 

しかし、ゼクシィはこの短文で両者の立場を尊重することに成功している。

 

しかも、より幸せなのは結婚したいと思える方ですよって。

 

プロポーズしたい人目線で語ることで、どこか上からな感じも一切しない。

 

既婚マウントを取られてる感じがない。

 

ただシンプルに、結婚っていいなあって思える。

 

それがこのキャッチコピーが天才である理由なのだ。

 

そして、結婚をまだしてない人に向けて最後はこう締めくくる。

 

「まだここにない出会いを、リクルート」

 

まとめます。

 

ゼクシィは天才。